立つには、背骨が壮健で無いと、しっかりと立て無い

孔子が晩年に振り返って言ったことば。
『論語・為政』に「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず(私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった)」とある


三十歳にして立つ。ふた昔の日本人には気骨が有ったが、今どきの日本人に、気骨の有る人は、少ない、めったに御見かけ出来無い。
気骨、剛毅、不退転、不撓不屈、剛毅木訥仁に近し。
「剛毅」とは、意思が強く、たやすく屈しないこと。
「木訥」は、飾り気がなく無口なこと。
「仁」は、道徳で理想とされる観念。
『論語・子路』にあることば。
【出典】 『論語』
此の剛毅木訥仁に近しの反対は、巧言令色少なし仁

巧言令色鮮し仁とは、言葉巧みで、人から好かれようと愛想を振りまく者には、誠実な人間が少なく、人として最も大事な徳である仁の心が欠けているものだということ


ヨハネ黙示録二十二章十一節
不義を成す者は、増々不義を為し、下劣なる者は、増々下劣を為し、
義なる者は、いよいよ義を行い、高潔な者は、いよいよ純粋に気高くすべし。


この上記の内容を、もっと親切に訳すと、
「人を奴隷扱いする者、虚偽、欺瞞、洗脳を奉じ行う者、不正、不公正を行う者」は、なお其の上に、それらの不義、悪逆非道を行い続けてしまう。
堕落した道義心の無い修道心の無い下劣な者は、更に加えて、道理に合わ無い、人道に背いた、酷い行い等等、巨悪に堕落し続けてしまう。
しかし、「義なる人、高潔な人」は、道義と徳とを行い続けて置きなさい。
同様に、厭離穢土欣求浄土(御神の国≒天国)を求める気高い人は、此の俗世の享楽生活から離れて、自らを純粋、高潔、信仰に由って生きる義人に、し続けなさい。


主は、人が「此の世で、短い生涯の中で、とても長い年月を高齢に至って迄も、世の奴隷と成って、金銭の為に、あくせくとした生涯を送って自分を消耗し尽してしまう人生」を望まれて無いから、よくよく考えて、華美な都会生活を維持する為では無く、
金銭の為に長く長く働くのでは無い、自分に見合う質素な生活を基本に据えるべき。
これが、精神的に「立つ」を実践出来る基礎では無いだろうか。