信仰者にとって朝に聖書を読む事は大事

シュバイツァー博士は医療奉仕等の為に阿弗利加(アフリカ)に滞在して居た時に、朝に聖書を読む習慣で有った。
人はパンだけで生きて居るのでは無く、御神の御口から出る御言葉に由って生きて居るのだから、御言葉を確かめる作業が聖書を読む事で、御口からどんな内容が出て居るのかを識別する事が出来るから。↙ルカに由る福音書十章三十八節から
10:38一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 10:39この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 10:40ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。 10:41主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 10:42しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」

此処でマリアと成って居るが原語では、Μαριαμで、マリアム(ミリアム)で有って、マリアと云う読み方では無い。主イエスを産んだ母の名も同じでマリアムで有る。
モーセの姉も同じ名前で、日本語訳ではミリアムと訳されて居るのに、新約では読み方を変えてしまったのは何故なのか?日本語訳では、最初に新約の翻訳が完成して、後々に旧約翻訳が完成したから、違いが起きたかも知れ無いが、新約も表記を改めるべきだったはず。
出エジプト二章四節~十節、十五章二十、二十一節。
新約を簡略化幼稚化させてしまう意図なのか。
ルカ十章のマルサ(マルタ)の姉妹のミリアムは、良い高潔な部分を選び取った。其れは、どうしても彼女から取り去ってはならぬ。と主は云われた。
だから聖書を読んで、深く理解する事、反芻する事は、非常に大切。
なお、モーセの姉のミリアムは、女性の予言者と云われて(書かれて)居る。


予言繋がりで、バプテスマのヨハネ。
マルコ福音書一章四節。
εγενετο 二過直三単 =起こって居た、して居た
Ιωαννης ヨハネス
βαπτιζων tとiが引っ付いて読みづらいので間隔を取って記すと β α π τ ι ζ ω ν と成る。現分単主 バプテスマを施して居る
εν ~の中で


τῇ 定冠詞単与 the
ερημῳ 単与 砂漠、荒野

και そして
κηρυσσων 現分単主 伝令者として報じる、発表する宣言する公布するの:現在分詞で、↗をしている
βαπτισμα バプテスマ 浸灌 水に沈めて清浄に清める事
μετανοιας 非行の後悔悔恨 実質上の改心矯正、激しい後悔、深い悔恨、良心の呵責
εις ~の中へ、真ん中へ、~に至る、為の
αφεσιν 容赦、赦免、捕われの身、捕虜からの釈放

ἁμαρτιῶν 複数属格 罪、不法、犯行、罪障、罪への傾向、的外れな生き方、高潔の道を離れる、堕落した

短くまとめると↙
1:4バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた

改心や矯正の英語はreformation で The Reformation と書けば、十六世紀ヨーロッパに起きた宗教改革、プロテスタント教会設立運動の事。


http://inochinomizu.hatenablog.com/entry/2018/10/19/162008

↗いかがです。プロテスタントとは、甘甘な見方をし無い、真実を深く看る事の出来る、見識の有る集団なのです。