前回の投稿記事に補足 基督の靈について

パウロに由るローマ人への手紙八章九節
「然れど(されど)御神の御霊、汝等の中に宿り給わば、汝等は肉に居らで、靈に居る。
基督の御霊無き者は基督に属する者にあらず。」
パウロが生きて地中海付近を伝道して居た時代は、聖霊の働きは明白に見て取れた。
知りもし無い異言=外国語を、まるで自国語の様に話し、預言する事も聖霊を受けた異邦人にすら出来た。
使徒行伝19;5
「彼等、此れを聴きて主イエスの名に由りてバプテスマを受ける。パウロが手を彼等の上に按きし(おきし)時、聖霊其の上に臨みたれば、彼等、異言を語り、かつ預言せり。」
これは、異常な力強い事態の、御神の御手が伝道者と共に臨んで居た時代の事で、さすがに現在では、此の様な事は、起こって居無い。


信仰とは見え無いものを、あたかも見る様にして信じる事。
未だ得て無い宝物を、得て居るかの様に大切に取り扱う事。
御神の御命令は、我等にとって、基督の化身である。
十戒は、御神の御言葉であり、基督ご自身の御体でもある。
基督様は活ける神様の御言葉なのだから。
だから、十戒、新約聖書の中の御命令を心中深く大切にして守る(厳守する)者は、基督の靈を持つ者と云える。
しかし、十戒を大切にし無いで、此の悪の世と迎合する様な八方美人型の巧言令色者の中身は、肉しか無い。
英語の挨拶に「Good-bye」と云うのがあるが、
God be with you.  の縮約形である。
you=ye。 心の中に、自分の意志の中に、御言葉を大切にし、其れを警護し厳守する事が神様が内在なさる事に等しい。

此の悪の世(自分の悪を含めて)を憎ま無い人は、何等、主を恐れて居無い事に成る。
箴言八章十三節。「主を恐れるとは、悪を憎む事である。私が今でも、ずっと憎んで居るのは、役に立た無い、退廃した、有害邪悪な、背徳背反、義務の不履行、邪道に導く事(其の様な信者集団=其の様な教会の信仰者達)である。」
私が~と書いて有る部分は、主が云われたので有る。
8:13
主を畏るるとは惡を憎むことなり 我は傲慢と驕奢 惡道と虚僞の口とを憎む
8:14
謀略と聰明は我にあり 我は了知なり 我は能力あり
8:15
我に由て王者は政をなし 君たる者は義しき律をたて
8:16
我によりて主たる者および牧伯たちなど凡て地の審判人は世ををさむ
8:17
われを愛する者は我これを愛す 我を切に求むるものは我に遇ん
8:18
富と榮とは我にあり 貴き寳と公義とも亦然り