新約聖書写本の誤謬

新約聖書には、数多くの違う種類の写本が有るので、或る写本で、書いて有る事が、他の違う写本では、違う意味で書かれて居る場合も有る。大きな違いは、余り無いけど、書き手の主観が働いて違いが出るので、読む方も、釣られて、書き手の主観で読んでしまう。
例えば、使徒行伝でステパノが猶太人を相手に真実を表明した時。文語訳と口語訳では、十戒をあなた方に( 使徒行伝七章38節 )と成って居るが、最近の商業目的聖書の訳では、英米流に成って居て、それ(十戒)を私達にと、違った訳と成って居る。採用した写本の種類が違うからである。
私は古い訳の写本が正しいと思う。ステパノは、多分にギリシャ人と見られて居るからである。
ステパノと云う呼び名の意味は、冠と云う意味。金髪が金の冠の様に見えたからでは無いかと想う。
他にも、ロマ書13章の冒頭の様に、権威とは、何か?と読む人を混乱させる内容が書かれてあるが、これは、六割くらいの確率で、すぐ後の教父が挿入したのでは無いかと想う。
ローマの大弾圧下に居たパウロが、権威に対して、胡麻をする可能性も有るかも。
ただ、信仰者にとっての権威とは、十戒以外に無い。
偶像崇拝、金の巨像を拝む様に命令した異邦人の皇帝に旧約の時代から、信仰者は、命を掛けて、それを拒否した。( ダニエル書第三章 参照)
この様に、偶像崇拝を強く拒否するのが伝統なので、右翼国家の権力(一種の偶像)を崇拝する等考えられる事では無い。
しかし、英米流では、権威を支配者と理解し、国家支配者の命令に従えと指示して居る?。
右翼国家での支配等と云う物は大金目的で動いて居る俗物。
大金をばら撒いて、支配を強化し、選挙も如何様遣りたい放題が今の時代。
主は、死人の始末は死人に任せよと云われた。霊的に死んで居る俗人俗物が支配力の頂点を形成する世の中。
夢を、ネブガデネザルがどんな夢を見たかを云わ無いままでも、解き明かしされる御神は、素晴らしい。