(第二)テモテ三章十五節

「又、幼き時より聖別された諸々の文字・書物類を識りし事を知ればなり。此れ等の書等は、基督イエスを信じる忠実に由りて汝を救い・永遠の生命の祝福に至らしむる智慧を与え得るなり。」
十六節。
「天からの霊感に由る、又、有益な、役に立つ凡ての書物は、--」


口語訳でも十六節は、「聖書は、凡て御神の霊感を受けて書かれた物で有って、--」と成って居るが、ギリシャ語元文には、単に「凡ての書物」と云う「 πᾶσα γραφη 」
が有るだけ。聖と云う意味の「 ἱερος 」の複数目的格の「 ἱερα 」が十五節では、使われて居る。
天の霊感に由る、有益な、役に立つという、此処に使われて居るギリシャ語は、形容詞で有って、動詞では無い。書物を形容して居る。


カトリック以降の教会は聖書と云う今のプロテスタントが使う聖書を凡て、そういう真正な物として扱い敬うが、人間が書いた物で有る事は、事実で、(邪悪傾向の)自己中心な文も書物も含まれて居る。
新約の中では、第一テモテと云う手紙は、偽書であると云う指摘が多いにも関わらず、支配する力に因って支配者側の人々は偽書では無いとし続けて居る。
その第一テモテを注解する人は、ギミックを使ってでも、第一テモテが真正な物と擁護するが、もし、偽書なら、人が、どう云おうが偽書だし、もし本物なら、人が何と云おうと本物なので、真偽は、神様に教えて貰うしか無い。
そういう真偽の怪しい部分は、特に旧約に多い。
明らかに祭司がペテンをやってる部分も旧約の最初の方の歴史的書き物から見てとれる。
それを、其の後のユダヤ人は、訂正し無い。