使徒とは名ばかりの使徒信条は、念仏並、意味無い

全く、好い加減なカトリックからの伝承
使徒信条は使徒の名を騙って居るが、使徒とは無関係。
「ポンテオピラトの元に苦しみを受け、十字架に付けられ」と成っているが、ピラトでは無く、祭司、律法学者、パリサイ人達と云う悪魔の子達に因って十字架に付けられたのは事実。主ご自身も、そう云われて居る。
猶太の最高議会サンヘドリンの議決で殺されたのである。
其れを猶太系から、改宗して潜り込んだ猶太人新教徒勢力が、自分達を正当化しようとして、罪をピラトに被せた偽りの文章。公けの死刑と云う刑死は、猶太人の行う事の出来無い権力で有った為に、管轄権限者に引き渡して、死刑を強要するのが、悪魔賊の遣り方。
暗に石で打ち殺す方法も、常套の手段で有った。



1095 クレルモン宗教会議  ローマ教皇ウルバヌス2世はクレルモン宗教会議で十字軍遠征を決議した。 1096~1270年の間、8次にわたって侵略強奪殺戮し放題の悪魔の十字軍の遠征が行われた。


コンスタンツ公会議(コンスタンツこうかいぎ)は1414年から1418年にかけてドイツのコンスタンツで開催されたカトリック教会の公会議
 ボヘミアの宗教改革者ヤン・フス(Jan Hus)は、ウィクリフの影響を受けて聖句中心の教説を展開し、免罪符を販売する悪俗化した教会を批判した。多くの支持者を得たが破門され、コンスタンツ宗教会議で有罪になり火刑にされた(1415年)コンスタンツ公会議(コンスタンツこうかいぎ)は1414年から1418年にかけてドイツのコンスタンツで開催されたカトリック教会の公会議 また公会議はウィクリフ、フスの教説を異端思想と判断した。1414年、ウィクリフの遺体は掘り起こされて著書とともに焼かれ、1415年7月6日、自説の撤回を拒んだためフスは世俗権力に引き渡されて焚刑に処せられた。




会議の席上においてファルケンベルクのヨハン(Johannes Falkenberg)はポーランドを糾弾し、「ポーランドはチュートン騎士団に対する戦争において異教徒を使うという嫌悪すべき罪を犯した。」と主張した。さらにヨハンはその論文「リベル・デ・ドクトリナ(Liber de doctrina)」において、
「皇帝は未信者を、たとえ彼らが平和的な存在であろうとも、異教徒であるがゆえに虐殺する権利を有する。ポーランドは未信者と同盟してキリスト教徒の騎士に反抗したのであるから、絶滅されるべきである。未信者を守護したポーランドは死に値し、未信者よりもさらに優先して絶滅されるべきである。ポーランド人から主権を剥奪し、ポーランド人を奴隷にすべきであると主張した
↗騎士団は人殺しの軍隊、殺戮、強奪、放火を業務とする気の狂った集団。


教皇庁は公会議首位説の承認を拒み,のちに大きな論争の種を残した。 結果的に教皇権が再び安定したものになると公会議主義の思想は危険なものとみなされるようになっていった。また、公会議の主導による教会の改革は結局行われる事がなく、宗教改革への伏線となっていった。 「福音書の真実のもとに、私は今日喜んで命を終えよう」ヤン・フスの最後の言葉である。


此のコンスタンツ宗教会議では、アタナシウス派とイエスは神聖ではあるがあくまで人の子であり、神そのものではない、というアリウス派とするどく対立した。


ローマ教皇ウルバヌス2世はクレルモン宗教会議で十字軍遠征を決議した。 1096~1270年の間、8次にわたって十字軍の遠征が行われた。  ★ボヘミアの宗教改革者ヤン・フス(Jan Hus)は、ウィクリフの影響を受けて聖句中心の教説を展開し、免罪符を販売する悪俗化した教会を批判した。多くの支持者を得たが破門され、★コンスタンツ宗教会議で有罪になり火刑にされた(1415年)ヤン・フスは、ボヘミア出身だっだ。ただし、ボヘミアンではない。ボヘミアのプラハ大学で神学を教える教授だった。免罪符を買えば、天国に行ける?アタマ大丈夫?金持ちは、大体地獄に行く場合が多い事は、新約を見れば明らか。フスが声高に教会を批判したのである。しかも、フスはどこぞの怪しいクレーマーではない。名門プラハ大学の学長まで登りつめた大学者なのだ。事実、フスの主張は民衆にうけていた。



↗引用
「ウィクリフは既に死亡していたので、墓を掘り返して遺体を火刑に処しました。西欧人って、そうゆうところは理解に苦しみますよね。
死者にムチ打つようなことを平気でやって、人間性というものが無いのかとも日本人からすると思ってしまいます。
時代は異なりますが、清教徒革命を行ったクロムウェルも王政復古後、墓を掘り返してウィクリフと似たようなことをしています。日本の歴史でそのようなことをした為政者は皆無なので、」
表面的だけの中身の皆無の宗教に毒された西欧はちょっと理解に苦しみます。


実はニケーア公会議のとき、アタナシウスはわずか30歳ぐらいで、特に重要な人物ではなかった。会議の後にアレクサンドリアで司教となった。ところがローマはその後、アリウス派が勢いを盛り返し、皇帝も妥協に傾いた。それを知ったアタナシウスは、正統信条の擁護のため敢然と「世界を敵として」戦闘を開始した。以来七十七歳の生涯に五度も追放をうけ、帝国の東西に流浪した。エジプトの荒野の庵や、アレクサンドリアの民家に潜伏し、抵抗を続け、ニケーア公会議の決議をよりどころに、次第に同志を増やし、国家の教会に対する干渉に反対した。ようやくその死後の381年に召集された第一コンスタンティノープル公会議でアタナシウスの三位一体説が正統信条として確定した。



これでわかる 真実の世界史・日本史
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