今迄の市販の日本語訳新約等の稚拙さ不正さ

私等の素人の様な者?が口を挿む事に躊躇いも有るけれど、昔の誤りは、指摘する事が、人として正しい未来を望む者の勉めだから、浅学非才?だけれども、主張する。代議員選び等の選挙に欠かさず投票行為をするのと同じ重大な義務。
加えて、英米語訳新約聖書の方が正しい訳をしてるのに、此の日本国の市販レベル新約の訳は、甚だ稚拙不正だから。御自分で市販の物の文章と、此処を比較なされて欲しい。

マタイ福音書23章23節の後ろの部分
汝等は、此れ等、「十分の一献上」をする事を習慣と成って居たが。
しかし、其れ等「律法の中にて、尤も重い公平と憐憫と忠実とを」決して放棄したり、等閑にしてはならぬ。


同じ箇所の英訳。
these it behoved ( you) to do ,and those not to be leaving aside .
behove とは、するのが、相応しいと云う意味。
但し過去形に成って居る事に注意。当時迄は、人(祭司達)に因る伝承を守って居たので、そうで有ったと云う事。
元のギリシャ語文は↙
ταῦτα (指示代名詞、此れ等) (δε しかし) εδει(δειの未完了過去三単非人) ποιῆσαι(ποιεωの一過去不定詞) κα'κεῖνα(然るに、其れ等は) μη(する事勿れ) αφιεναι(放棄する、棄て去る、等閑にする。忽せにする。)


この部分は、恐らく福音書記者が説明的に書き入れたのかも知れ無い。
ギリシャ語の未完了過去形とは、当時そう行(おこな)って居たと云う意味。過去の習慣事等についても説明する。
十分の一を献上して居たと云う行為習慣を。
それは、枝葉末端の極、枝葉の部分。
根幹の公平、憐憫、御神への忠実が、それらの十一献上等の末節等と比べ物に為らない程に重要だと、主は言明されたのである。
そして、「十一」犠牲献上に関して等は、前のエレミヤ書の所で、書いた様に、御神は、民に指示された事は、全く無いと言明されて居る。