普段は、読み過ごしてしまう、新約の誤り。

新約の最初のマタイ伝と呼ばれる福音書
其の27章の九節~
其処には、「預言者エレミヤに由りて言われた言は成就した。~」  其れに続く引用が書いて有るが、実は、エレミヤの言葉では無く、ゼカリヤ書11の章12~13節の預言の引用。


此の間違いが起きた原因は、特定出来る物では、無いが。
明らかに違うだろうと云う所は、新約では、旧約に比べて少ないが、少々有ると思う。
私は、新約も、原本、底本に何者かに因って、後に成ってから加筆されて居たり、肉付けしたり編集加工したりされて居たと思う。


だから、直感で、読んで居て、此の場所は、おかしいと思う場所は、後から不忠実な加筆者が自分勝手に加筆した可能性が濃厚。長い時、年月を経ての、人を介しての写本、伝書とは、其の可能性を消し去る事が出来無い。


ローマ帝国の強権の影響を受けただろう教父が加筆したと思われる新約の伝書も有る。其の他にも、偽文書の疑いの有るテモテ第一等。

前略、道の上より

「前略、道の上より」と云うのは、紛れも無い、あの一世風靡セピアの放った名曲。




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この中で歌詞が良いので、少し挙げて見る。
掛け声の「素意」と云うのは、かねてからの考えと云う意味らしい。


「それならば一層斜めを見ずに  おてんとうさんを 仰いで見ようか」
斜めを見る奴隷生活ばかり、して無いで、真っ直ぐ御声を聴き摂って見よう。
漢字で書けば、「御天道様」 
又は、「天堂(主)様」 どちらも、御在天の御慈悲深い父なる御神を表す言葉


あとの詞は、御自分で考えて下さい。


只、海の喩えは、此の世は、苦海
だけど、生活の場として、常に歩き回る所。
息を止める時は、祷り、黙想する時。素意を練る時。自分を鍛煉する時。
勿論、通常の息の意味では、無い。動物的な、肉の想いを打ち臥せる意味ですぞ。
肉から出て来るいろいろの想いを後ろに控えさせてしまってからの、霊の想いを充実させると云う意味ですぞ。


良い歌だと思う。

至高の十誡

十誡を守ら無い、赤ちゃん信者、赤ちゃん集団
救い主の御名を冒し騙る所業に慣れてしまって落ちて居る。自らの事を「~スティアン」とか云う。
又、自らの集団を~スト教会とか呼ぶ。
主の尊い御名称を妄りに唱えるなと、十誡に書いて有る。
御名を冒す人は、敬虔では無い。
又、知恵に足り無い。


虔と云う漢字の意味は、くそ真面目な心や態度の事。
虔誠や虔恭と云う漢字に現れて居る通り、真面目で礼儀正しい、謹んで恭しくする等の意味。


日本への福音伝達は、主に英米に因って本格的に始められたから、彼等英米人の少々礼儀に欠ける傲慢さも、兼ね合わせて日本に定着してしまった。日本人は、昔は、中国から伝わった思想で、人の中身、其れに対する礼儀を大切にして居たのに。
又、英米のレッドパージ思想、世界征服謀略思想を根底とした、「 προτιθημι 」プロティセーミ(かねてから、予め設計して置く事)に沿って、外面崇拝的、祭儀的、巧言令色主義的な宗教へと導く仕掛けが施されて居る。
それの一つが、上記等の名称の問題で有る。


 主は、言われた。マタイ五章20節。
「我、汝等に言う、汝等の道徳的完全さ、善行、慈悲、憐れみ深い事が、律法学者達やパリサイ人達よりも、更により多く溢れる程で無いならば、汝等は、天国の王領には、入り込め無い事に成る。」


其れでは、信者が自ら自称する場合には、何と云えば適当か。
「十誡忠実者」とでも云うのが良い。
又、其の人達の集団は、「十誡忠実民会」が相応しいのでは、無かろうか。
英語なら、個人は、Decalogist  。集団は、Decalogist democrats 。
しかし、英米支配勢力は、表面的には、どうで有れ、中身が社会主義の集まりには、最強に反対し弾圧する。
そういう民主主義的名称を使う事を、世が改まりでもし無い限り、許可し無いだろう。


第一コリント四章八節。
汝等は、既に満腹で食べ飽きた状態で有る。既に、裕福と化した。我等を差し置きて汝等は、王と化した。
本当に汝等が王で有れば良いのだが。
我等、汝等と共に、王と成って統治する為に。



救い主の尊い御名称を自らに冠する事が上記の様な行為で有る。


黙示録三章十六節~十七。
「斯く熱きにも有らず、冷やかにも有らず、只、生温いが故に、我、汝等を我が口より吐き出ださん。
汝、我は、富めり、乏しき所は無しと云いて、実は、己が悩める者、憐れむべき者、貧しき者、盲目なる者、裸なる者たるを知らざれば、」



イスラエルの民は、其の昔、自らが盲目で有る事を知らず、民族は、消滅に近い形に成った。ユダヤ教は破棄された。
十誡を徹底的に守る事を知ら無かったから。表面的な祭儀にばかり、身を窶(やつ)したから。
今の現代人に強く求められ続けて居るのも、此の至高の十誡を強く深く守る事で有る。人権が破壊されようとする日本だからこそ。