良いウェブ記事を見つけたので、御紹介「旧約時代の豫言」

こんなに、親切な記事が無料で手軽に読める今は、恵まれて居る。
正に恵みの時。




http://koinonia-jesus.sakura.ne.jp/kowa/1preot.htm

💮旧約文書の背徳性、其の弐

モーセは、エジプトの文字を知って居ただろうが、他の当時のイスラエル人は、文字を書く事が出来無かっただろう。カナンに定着し始めてから、其の話言葉を取り入れたらしいから、文字で記録に残す事がイスラエルで、始まったのは、カナン生活開始のだいぶ後だろう。
前六世紀(前586年)のエルサレム陥落。
それでも、其の時代、文字を自由に操る人は、ごくごく限られた一部の人で有ったに違い無い。学者とか律法家とかの。
モーセ五書の中に、主の幕屋の実に細かな規定が有り、これは、主がモーセに御命令されたと云う書き方に成って居るのだが、主が、物質的な細部に渡る御命令を細かくモーセに御命令されたとは、とても思える物では無いし、この記事の成立時期がはるか後世の物で有る事も加味して、主の幕屋の細かすぎる規定は空想の話だと、推察する。又、十誡の絶対的御命令に反して、イスラエル人が殺し合いを平気でして居たと云う様々な記事についても、どの程度が事実なのか、話し半分に聞いてもイスラエルとして、罪深い事だ。選ばれた民が殺戮に熱中する民族だったとすれば、ノアの箱舟の時代の百倍以上、御神は、イスラエルの民を征伐なされるはずだ。




ロマ書三章29節~30。
「御神は、只、基督教信仰者民衆のみの御神なるか、又、異邦人民衆の御神ならずや、然り、又、異邦人民衆の神なり。
御神は、唯一にして、割礼有る者を忠実さに由りて義とし、割礼無き者をも、忠実さに由りて義とし給えばなり。」


基督教民衆が何に対して忠実で有る事を求められるかと云えば、十誡に対して厳しく忠実で有る事が求められる。
一方、異邦人民衆には、此の十誡が、未だ十分には、知らされて無いが、人の踏み行うべき道義責任、徳の道、正直に生きる事等、良心に恥じ無い生き方が昔より求められ続けて居る。
一体、猶太人民衆は、此の十誡を、いつ知る様にに成ったのか、七十人訳が出来たのは、前三世紀から前二世紀頃とされて居るから、其の前には、文書として、ヘブル語で書かれた物が有ったと云う事に成るが。旧約が凡て完成したのは、後一世紀と云われても居る。
此の十誡を与えられて居ながら、カナン等の他国人の地に侵入して、殺戮する事は、決して許される物では無い。
十誡を知りながら、大罪を犯すとは、狂人の民族としか云い様が無いから。
昔の猶太人は、プロット作りに非常に長けて居た。
非常に狡猾、老獪であった。
あの自己中心のネヘミヤは、王に対して、先祖の墓を建て直したいと言上したが、建てたのは、巨大な城壁であり、それも、武器を携帯しながら造作した。
猶太戦争で御神の使いのローマ軍に由って、神殿諸共破壊される運命と知って居無かった。
モーセ(アロン)も、御神の前に罪を犯したので、約束の地に、入れ無いと御神に言われた。
無学で粗忽なペテロは、その時未だ、エルサレムでのペンテコステの時に至る迄は、聖霊を豊かに受けて居無かったので、主イエスが限られた少ない弟子を伴われて、山に登られた時に、二人の天の使いと会談された時、ペテロは、其の二人をモーセとエリヤと勘違いした。


マタイ五章17節。
「我、律法、又、豫言者を解体する為に来たれりと思うな。解体する為では無く、却って充填する事の為に、我は、来たので有る」
と主は、言われた。
そして五章の続きは、十誡の深い意味と責任を教えられた。
主が言われた律法とは、十誡を指して居る。
猶太人が自ら、御神を偽証して作った律法の細かい規定は、含まれて居無い。祭司律法とか、御神は、作られて居無い。
内側を聖別しなさいと、御神は言われる。

「旧約書物」の中の違法性、背徳性。其の壱

モーセ五書は、前640から前600年に、おおまかに世に出て来始めたたらしい。形が整い出したのは、エルサレムが前586年にネブガデネザルに由って陥落させられた後、捕囚連行された後後に、ペルシャ王クロスに由ってイスラエル民が帰還を許された後の事になるのかも知れ無い。


旧約には、サムソン(士師記13章~16章) が書かれて居るが、本当の事実なのか、疑わしい。又、他国人の多くの生命を無惨に殺戮したと云う事が、あたかも、英雄の如く書かれて居るのは、酷過ぎる。ダビデも同じ様な殺戮をしたと記されて居る。


ごく大まかに考えれば、旧約文書が世に出る様にまとめられた年代の順序は、古い方から、預言書、詩編等の諸書、そして、モーセ五書だと云う事が、今の時代に判って居るらしい。


色々の嘘、偽りや、人の殺戮を多く含む、旧約の凡ての文書が、「聖」と言える訳が無い。
但し、神様からの本当の豫言の文書(預言書、詩編)や、神様に属する知恵が書かれて居る箴言や、本当の歴史が書いてある物等は、朽ちない不変性を持って居るのは、確かだ。


前515年、エルサレム神殿再建、前445年ネヘミヤが五十二日間で、城壁を再建。



エズラ記八章。
「学者エズラは、此の事の為に、かねて設けた木の台の上に立ったがーー」
エズラが準備して読んだモーセの律法の書の中身は、どういう物だったのか、
安息日について、とても厳しく民に求めて居る事が、たくさん書いてあるが。又、多民族との結婚を厳しく咎めた。
霊的な安息(日)は、天国の事を指すのであって、この世で、「普通の生活をするなと云う事」でも無い事は、後の世が、全く安息日の当時のエズラの規定を無視する事からも判るし、主イエスも必要な善い事をするのは、良い事だと証明された。



十誡から見た、エルサレム神殿。
天に在る、何物の形をも、造作しては、ならない。
ダビデ家は、豫言者の警告を無視して、巨大な宮を造作した。
寺小屋や、民の集会所のとしての、建築物なら善いが、信仰の対象として、真の御神に代えて、祭司等の好む犠牲を献じる対象とした。


祭司たちや、其の支配者達は、其れに仕えて、深い堕落をし、傲慢に陥り続けた。
至高の十の誡律は、一体いつ全部がそろったのか?
モーセも、完全な十誡を知って居無かったのでは、無いだろうか。
訳は、モーセ以下の民衆は、侵入した異国の地で、原住民を殺戮したと伝えられて書かれて居るからである。事実なのか、虚偽なのか。


此の様な旧約の違法性、他国人の権利や、他国人への殺人に関しての人権を無視した、卑怯な考えは、タルムードに受け継がれて生きて居る。
恐るべきタルムードでは、今もなお、イスラエル民以外の他国人、特に、有色の国民を、家畜(ゴイム)と看做し、どんなに卑劣な事、殺戮しても、イスラエル(支配者側連合)の益に成るなら、仕方の無い事だと教える。
これが、NWОの世界支配の基本に成る教え。