明治の立派な気骨の有る男、内田魯庵(貢)

明治には、少なからず立派な男達が居た。
内田魯庵と云う人も、其の内の御一人。


慶応四年生まれ、昭和四年没
娯楽主義、功利主義を批判


明治二十五年、ドストエフスキーの「罪と罰」の前半を英語版から翻訳刊行。
1905年にトルストイの「復活」を翻訳
著書に「社会百面相」 「破垣」1901年  「思い出す人々」1925年
等等有り


「俗物根性」(金銭や栄誉を第一に考えようとする気持ちや性質)を批判した
其の著書の中(破垣)等に「不徳漢」(人として守るべき道を外れた男)
其の他の著書に、「変節漢」(節義を変えた奴を軽蔑して云う)、
「社会百面相」の中に「猟官運動」(官職等優位な職等に就こうとして人々が争う事)
等、社会を鋭く見詰めた表現が多い。


又、悪魔の英米傀儡の(明治、大正、昭和)日本政府から著書の発禁処分を度々受ける等の弾圧を受けた。
富み(マモン)崇拝は、下劣な俗物根性の人々に受け継がれて続く。


ヤコブ書五章三節後半。
汝等、此の末の世にありて、なお財を蓄えたり。


「道」と「徳」は、「世」と敵対して居る。
「世」と「友」で居ようとする臆病者は御神に敵対して居る。

花咲か爺の例話

正直さと云う物は、何処から来るのか、其れは、良心に対して忠実な者しか持て無い宝だ。
花咲か爺の話。


https://www.aozora.gr.jp/cards/000329/files/3391.html



正直者と不正直者=欲張り、金銭慾塗れとの対比
不正直=商売慾最優先、金権慾の虜、世の欲



此の花咲か爺の話は、江戸時代中ごろには、存在して居たと云う。
正直者の幸と、其れに対比した不正直者の儚い人生と、其の無惨な結末



此の世の支配者とか勢力は、人を金の慾の生涯「奴隷」として洗脳して、金儲けに従事させ続け、其の上前を、たっぷりと撥ねて搾取する。



哀れな奴隷よ。自分の腹=慾の為に奴隷に成って得る物は何か?
惨めに酷使された後の抜け殻は、焼かれる為に有るのみ。
中身は無い。中身に真実が無いから。





http://www.rock.sannet.ne.jp/hg31cc/parable.html/para6.html
↗ 王子様の婚礼の事
御招待を拒否して金儲けに走る不正直者の金慾の亡者






正直への招待=悔い改め、不正直や罪悪等に対する激しい後悔、痛悔、深い悔恨、良心の呵責、自責の念等に対する「招待」を嫌がって拒否する金銭権慾愛の強い者達。


金銭等を愛するのが悪の根源。真理に背く者に成るから。
後悔は、御神の御助けが無いと出来無い。


ギ語では、改心する事をメタノエオウと云う。
注意深く注視する、心に抱く、悟る、会得する、確実に掴む、受け入れる、とかの意を含む。


商売だらけの此の世界。
本当は正しい宗教も商売の道具として利用する悪人が多い。


正直者は、主に、金を取らずに、慈悲、公平、義、等を追求する。


伝道者の書十二章十三節。
事の帰する所は凡て言われた。即ち、御神を畏れ、其の御命令を守れ。此れは、凡ての人の本分である。
十四節、
御神は凡ての業、並びに凡ての隠れた事を善悪共に裁かれるからである。



高潔、徳の高い、慈善、善良、親切と、其れに対しての悪知恵、狡さ、狡猾、腹黒さ、邪との対比。


悪魔側は、悔い改める事が出来無い。何故なら、悪を誇るのが、悪魔側の性質だから。
悪魔側の耳は「獣」の耳だ。


耳の有る者は、聴くが良い。
今の時代に耳を閉ざすのは、愚か過ぎる。

今迄の市販の日本語訳新約等の稚拙さ不正さ

私等の素人の様な者?が口を挿む事に躊躇いも有るけれど、昔の誤りは、指摘する事が、人として正しい未来を望む者の勉めだから、浅学非才?だけれども、主張する。代議員選び等の選挙に欠かさず投票行為をするのと同じ重大な義務。
加えて、英米語訳新約聖書の方が正しい訳をしてるのに、此の日本国の市販レベル新約の訳は、甚だ稚拙不正だから。御自分で市販の物の文章と、此処を比較なされて欲しい。

マタイ福音書23章23節の後ろの部分
汝等は、此れ等、「十分の一献上」をする事を習慣と成って居たが。
しかし、其れ等「律法の中にて、尤も重い公平と憐憫と忠実とを」決して放棄したり、等閑にしてはならぬ。


同じ箇所の英訳。
these it behoved ( you) to do ,and those not to be leaving aside .
behove とは、するのが、相応しいと云う意味。
但し過去形に成って居る事に注意。当時迄は、人(祭司達)に因る伝承を守って居たので、そうで有ったと云う事。
元のギリシャ語文は↙
ταῦτα (指示代名詞、此れ等) (δε しかし) εδει(δειの未完了過去三単非人) ποιῆσαι(ποιεωの一過去不定詞) κα'κεῖνα(然るに、其れ等は) μη(する事勿れ) αφιεναι(放棄する、棄て去る、等閑にする。忽せにする。)


この部分は、恐らく福音書記者が説明的に書き入れたのかも知れ無い。
ギリシャ語の未完了過去形とは、当時そう行(おこな)って居たと云う意味。過去の習慣事等についても説明する。
十分の一を献上して居たと云う行為習慣を。
それは、枝葉末端の極、枝葉の部分。
根幹の公平、憐憫、御神への忠実が、それらの十一献上等の末節等と比べ物に為らない程に重要だと、主は言明されたのである。
そして、「十一」犠牲献上に関して等は、前のエレミヤ書の所で、書いた様に、御神は、民に指示された事は、全く無いと言明されて居る。